東新宿とは

 photo: DSC00984 / Kouki Kuriyama
もともとこの地域は西大久保(旧地名)とも呼ばれ、戸山(団地)、抜弁天、新宿6・7丁目、歌舞伎町2丁目あたりに交差したエリアで東新宿と呼ばれていたわけではない。都営大江戸線の地下鉄駅「東新宿駅」が出来たこと、副都心線が入り2線乗り入れとなったことから明確に東新宿と呼ばれるようになった。
この街が大きく変化している理由として新宿6丁目にあった「日本テレビゴルフガーデン」跡地の再開発がある。歌舞伎町を抜けた先、日清食品本社裏側にあったその広大な敷地が、入札の結果三菱地所により「新宿イーストサイド」として開発されることとなったことからある程度の発展が約束されていた地でもある。
 photo: East Side Square @ Higashi Shinjuku / *_*
現在は駅直結型高層建築の「新宿イーストサイドスクエア」に企業や施設が集まり、隣接したパークハビオ新宿イーストサイドタワーという全館賃貸の高層マンションで居住者も増えた。それらにマルエツなどショッピング関係施設が入るなどして、近隣の生活環境も向上。歌舞伎町の隣という若干殺伐とした空気も減り、以前よりも街らしくなってきている。

東新宿は西大久保だった?

新宿区は1965年(昭和40年)に住居表示の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。
 この結果、1970年代には戦後の若者文化の発信地とも言われていた新宿駅周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、 古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。
これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり旧町名保存運動が盛り上がりをみせた。
 結果として東新宿といった方角町名は採用されず、牛込・四谷エリアの住所は古い名前のまま町名保存されることとなる。ちなみにこのエリアは大久保駅よりも東側にあるにも関わらず、西大久保という地名であったが、現在は消滅して、様々な住所(新宿6・7丁目の一部、歌舞伎町2丁目、大久保1・2・3丁目(一部除く)、戸山3丁目の一部となっている。

東新宿駅のある「となり町」大久保とはどういう場所か

 大久保の地名の由来は、かつてはこの地に川が流れて相対的に周りより大きな低地(窪地)であったことから、大久保と呼ばれたものであるとか。 江戸時代までは農村であった。明治時代にはつつじの景勝地として知られ、近郊から多くの人が訪れたという。
大正時代から終戦までは戸山界隈とともに東京有数の高級住宅となる。華族や実業家の邸宅が立ち並んでいた。
 駅周辺の西側は百人町と合わせて日本最大のコリア・タウンといわれているが、実際に住民登録上は多い地区でも50%程度でまだ半分以上は日本人が住んでいる。
小泉八雲、国木田独歩、島崎藤村ら文学者が居を構えていたことでも知られる土地でもある。
 ちなみにこのエリアの区画が縦に長いのは、天正19年に鷹狩に来た家康が鉄砲玉薬組に給知した際「間口を狭く裏行を長く賦與すべし」と命じたことが原因といわれるが、 隣同士が密に絡んでいれば心強いと考えられたため。細い路地が多いのだ。

東新宿の暮らしぶりは?

 現在の東新宿エリアについては、新宿6-7丁目辺りや、新宿区戸山の一部あたりまで入る感じで、エリアとしては「大久保」だけともいえなくなっている。駅前を中心とした再開発により入店する店舗が増えて、マンション供給も多くなっている。また、団地等が近くにあり、スーパーも多く比較的カップルでも老人でも楽に暮らせるような地域となっているため、案外暮らし良いのです。